紫だちたる雲の細くたなびきたる blog

春はあけぼの(をかし)

国語と文学を分ける

@ITを読んでいたら、こんな記事があった。
メタ情報とサマリーで「伝わる」ビジネス文 − @IT自分戦略研究所

「文章に書かれている情報を正しく読み取り、整理整頓して分かりやすく他人に伝える能力」という意味の国語力、現在のビジネスやエンジニアリングの世界で必要とされる国語力は、例えば下記のような目次で構成された教科書では身に付かない。
(中略)
一目で「小説」「詩」「創作」「思索」といった文学や哲学に関するテーマのオンパレードであることが分かる。要するに20年前から変わっていないのだ。

 僕自身は文学ではビジネス用の国語力が身につかないとは思わない。坂口安吾大江健三郎などの文章から書かれている情報を正しく読み取るのは至難の業だ。曖昧模糊かつ自分勝手な要件ばかり押しつけてくるユーザ*1から要件をヒアリングしなければならない上級SEには難解な文学こそ必要だと思うのだが。
 冗談はともかく、文学は必要だと思う。ビジネスに役に立たないかもしれないが、少なくとも人生を豊かにしてくれる。教養とはそういうものだ。機能性ばかりを追求していくと、例えば車はミニバンばかりになってしまう。色気のある車、スポーツカーや高級セダンが消えていってしまう。建築物はみんな立方体のビルばかり、吹き抜けなんてものは空間の無駄とばかりになくなってしまう。人間から文学や芸術を愛する心が消えてしまったら、きっと死んだ魚の目をした、まるでロボットみたいな人間ばっかりになってしまうんだろう。

だから次の意見には総論賛成、各論反対である。

別に文学や哲学を否定したいわけではないが、それを高校の授業で何十時間もかけてやる必要はないだろう。(中略)だからこそ文学教育は国語教育とは別にするべきだと考えている。普通の学生に必要なのは国語教育であって文学教育ではないのだ。

 僕も文学・哲学に何十時間もかける必要はないと思う。理系に文系教養科目は4単位で十分っていうのと同じ論理である。もっと読解力・コミュニケーション能力を向上させる国語教育というものを教えるべきだと思う。
 だが、高校生にこそ文学教育は必要だ。小学生には文学は難しい。中学生でも文学を理解し味わうにはまだ人生経験が足りない。精神的にもかなり大人に近づいた、でもまだ大人になりきれてない、そういう時期に読む文学が彼らに与えるものは計り知れないのだ。素晴らしい国語科の先生の元で文学を味わう術(すべ)を教わるというのは重要な人生経験となると思うのだ。
 ちなみに、高校時代、ちょっとした騒ぎを僕らの学年が起こしたことがある。少々素行が荒っぽいがものすごく文学への造詣が深い先生が辞めさせられて、その後の授業を文系クラスがボイコットする騒ぎが起きたのだ。その後釜で来た先生はまだ大学院を出たてのペーペーで授業の質が比べものにならなかったのを覚えている。きっと引用の著者の国語の先生はごく平凡な先生だったんだろう。
 多少無理をしてでも自分の子供はいい先生が多い学校に入れるべきだと思う。いい先生がいる学校にはいい生徒が集まる。結果、お互いを刺激し合っていろんな才能が開花する。例えばうちの高校はホリエモンを生み出した(だめ?)。大学は同級生から近藤を生み出した(まあ彼ならどの大学に行っても何らかの形で頭角を現していたかもしれないが)。

閑話休題。話がそれた。

 国語と文学・哲学を分けるのには賛成。文学・思索はどちらかというと芸術的要素が強い。それを一般の学生にメインの教科として何十時間も教えても仕方がない。文学は芸術と同じ扱いでもいいと思うのだ(高校だと選択制ということになるのかな・・)。
 でもビジネス国語ばかりを教えるのには反対である。逆にコミュニケーション能力の低い人間ができあがる可能性が高いと思う。
 ただ要件の話だけの事務的な会話しかできない人間に面白味など無い。面白くない人間と関係を深めたいと思う人間はいない。なぜ人は人と飲みに行くのか。それはその人間を見るためである。もっと相手を深く知り、その人とのコミュニケーションを円滑にしたいと思うからである。人間としての面白味、あるいは色気とでもいえる魅力は、その人がどれだけ多くの人生経験をしてきたかにかかっていると思う。相手を惹きつける魅力、それは人生経験をどれだけ有効に会話に活かせるかにかかっている。人を惹きつける会話はビジネス会話では生まれない。相手の気持ちを読み、相手を思いやる能力が必要だ。それを育むのは文学や芸術だと思う。素晴らしい作品に感動することで人はどんなものに感動するかを知り、どうすれば感動させることができるのかを考えるようになると思うのだ。

*1:僕は実際にそういうのに遭ったことはない。ていうか上級SEじゃないし。