紫だちたる雲の細くたなびきたる blog

春はあけぼの(をかし)

米原万里さんの冥福を祈る

学生時代のサークルの先輩のブログを見ていて、「えっ」と思った記事があったので
トラックバックしておきます。
“エッ勝手リーナ”-明日は明日の風が吹く
 米原万里さんのエッセイは僕も本で読んで感銘を受けました。

ガセネッタ&(と)シモネッタ (文春文庫)

ガセネッタ&(と)シモネッタ (文春文庫)

 旧ソ連ではあらゆる言語の通訳がいた、っていう話とか、英語=国際化ではないっていう話とか、資本主義世界でしか生活したことがない僕にはかなりおぉ〜っと思えました。あと、彼女が小学校高学年くらいの頃、(チェコに住んでいらしたそうですが)学校で文学書が流行ったことがあって、それは実は、例えば三銃士のダルタニャンとミレディのラブシーンのように性への好奇心によるものだった、日本では少年少女向け文学はそういう場面がカットされがちだが、カットする必要はない、とか。
 惜しい人を亡くしました。残念です。遅ればせながらご冥福をお祈りします。

体罰ってありでしょ。

asahi.com:高校野球ニュース「体罰を語る1 指導者から意識改革を 宮田和信・鹿屋体大教授」 - 高校野球

学生の中には「たたいてくれたおかげで目が覚め、全国大会に出場できた」など体罰に感謝する声があった。しかし、人間は言葉でコミュニケーションしてこそ、人間たりえる。「愛のムチ」は体罰でなく、態度の厳しさであるべきだ。

※引用は一部だけ抜粋してます。全てを読まないとマスコミみたいな不公平な記事*1になっちゃうので全部読んで判断してください。

 うーん、部活動で、しかも例えば「試合内容が悪かった」とか「エラーした」とか実際の活動に関する内容ならまさにここにあるとおり態度の厳しさでいいと思うんだが、例えば、高校生で喫煙とか飲酒とかは、絶対に体罰が必要だと思う。生徒側の意識として「見つかっても殴られないからいい」よりは「見つからなければ殴られないからいい」の方が、喫煙とか飲酒とかを『悪』だと自覚できてる分、ましだと思う。最近の高校生は人前でも堂々と喫煙してやがる。
 少なくとも親子の間に体罰はあるべきだ。やってはいけないことをすれば罰を受ける。それを教える意味もあるし、何より大切なのは、人の痛みは自分が受けなければわからないということなのだ。叩かれなければ、叩かれた人の痛みはわからない。子供は親に叩かれたり友達と殴り合いの喧嘩をして、暴力の痛みというのを知っていくと思うのだ。ここで重要なのは友達とは殴り「合い」であること。一方的に殴って終わりなのは単なるイジメである。先生は、イジメがあったら苛めた方にゲンコツ!殴り合いなら双方にゲンコツ!!すべきである。口で言ったって殴られた痛みはわからないんだから。「我が身をつねって人の痛さを知れ」である。自分でつねられないなら親や先生のような指導者がつねるのは当然だと思う。
 体罰が暴力の引き金になっているというのなら、30年前より確実に体罰が減っている現代、凶悪事件は減っているはずだ。だが、逆に増えている。なぜか。人の痛みをリアルに感じることができない人間が増えているからだ。人の痛みがわからないから、人が痛がっているのを見て面白がってさらに痛めつけようとする。気がついたら相手が死んでいた、なんてこともある。
 もちろん体罰と虐待の線引きとか難しい問題はいろいろあると思う。でも、いわゆる『愛のムチ』は必要だと思うのだ。自分の大切な子供を叩くのは自分の心にも痛みを伴う。その痛みを感じる間は大丈夫だと思うのだ。怖いのはそれが麻痺してしまったときだ。歯止めが利かない。そしてそれを受けた子供も虐待としか感じられないと思う。

*1:マスコミの情報操作はひどいものである。発言の一部だけをまるでそれが主旨だったように報道するので、下手をすると発言が全く反対の意味で報道されることもよくあるという